保健の窓

老いの道をあゆむ

岩宮 緑

 

二十世紀後半は物質的な豊かさとともに、生活環境が大きく変化した時代だった。生活は快適になったが、その中で否応なく自然破壊は進んでいった。そしてそれとともに「心」の自然破壊も進んでしまったのではないだろうか。生態学の立場から考えても、環境の変化と人間の心の変化は深く関係している。心の自然破壊というのは、人と人との心のつながりが失われてしまうということである。その影響は青少年のさまざまな問題だけでなく、老人にも大きく及んでいる。環境の激変に適応できず苦労している老人が、他者との心のつながりを持ちながら生きていくのにはどうすればいいのだろうか。いま老いの道をあゆむひとりとして、自己流の川柳を交えながらその点について考えてみたい。

成熟した人間とは、食べて寝るだけではなく、自分の楽しいと思うことをして心を慰める「遊ぶ」人間であるといわれている。「楽しみを キー・ワードにして 老いを生き」。これが長寿社会のめざす老人像のひとつであろう。老いを感じ始める時期には個人差があるが、人生を一日にたとえれば夕方になったようなものである。夕方からがいよいよ楽しい時間だと考えることもできる。しかし生き方や価値観の転換を迫られる時期なので、「どうせ」「いまさら」「もう」という言葉で自分を縛ってしまう人も多い。言葉というのは恐ろしいもので、口にし続けていると本当にその通りになってしまう。「やっとで」「これから」「せっかくだから」を口癖にしてみてはどうだろう。「楽しみを 尋ねて歩け 向老期」「楽しみは 先に延ばすな 今が旬(しゅん)」といった姿勢で新しい人生を踏み出す覚悟が持てれば、立派な老いの旅立ちである。

前回、老年期は人生の夕方であるという表現をしたが、体力的に下り坂になるこの時期には身体のことがとても気になってくる。それだけに健康情報に振り回されないということも重要なポイントだろう。健康とは目的ではなく「生かされている自分をより良く生きるための手段である」と思うのだが、どうやら健康自体が目的になってしまって生活全体が健康を求めるための行動に支配されてしまうこともあるようだ。こういった不安にふりまわされるより「治癒力は 心の歪みに 左右され」「使わない 機能はすべて 駄目になり」という自覚を持って暮らすことが大切である。「治らんが 死なん病気と ともに生き」といった心境で病気と和解して共存する姿勢を持っておられる高齢者がおられるが、実に見事な生き方だと思う。そして「完璧が ほどほどに劣る 歳になり」と、自分に対する要求水準を下げて完璧を求めないおおらかさを持ちたいものである。家族にもその理解があれば、軋轢も少なくなるだろう。

現代は健康情報だけでなくあらゆる情報が氾濫している。そのため「子どもらは 別なメディアの 中で生き」といったように、同じ家に住んでいても子どもたちとはまったく別の世界で暮らしているような孤独を感じている老人は多い。これほどの環境の激変の中で老いを生きるというのは、人類の歴史のなかでも類を見ないことであり、実にストレスが大きい。しかし「禍福さえ 考えようで 入れ替わり」という真実は忘れてはならない。このように気持ちを明るい方向へ向けていくための現実的で地道な努力こそが、老人の自立の基本であり、どんなに身体が衰えても他者との心のつながりを生む智慧なのである。