保健の窓

在宅ホスピスって?

鳥取市 野の花診療所 徳永 進

家で死ねるかなあ

 おいしいもの食べること、お洒落すること、いい家に住むこと、お金のこと、健康であること、幸福であること、について人々は関心を持つ。 当然である。与えられた命、命ある一日一日を誰だって快適に過ごしたい。ところが、これも当然なことだが、人々は病気にかかり、けがをし、年も取り、不自由になるという宿命を持つ。生きているといいこと半分よくないこと半分、のようだ。挙句の果て、皆が死に直面する。これは簡単に言うと、仕方ない。 仕方ないことだが、死もせめて自分に納得のいくものであって欲しい。死に到達するためのレッスンが大切なようだ。近代化した現代に生きてると、何かにつけ私たちは、レッスンを受けないと気が済まない。しかも、その死を「わが家で迎えるのはどうか」に関するレッスンだ。人々はオロオロする。ピンチ。「できるんかい」 このピンチをくぐり抜けよう、という声が「わが家で死を」という呼び掛けの中にある。ほんとはどこで死を迎えるのも自由。でも、迂闊にも忘れていた「家」での死のあり様は以外と良いもの。そのことを腹据えて話し合うことが、とうとう大切な時代となってきた。皆で時代の波を越えねばならない。

 

 

 

 

家で死ねるかなあ

 家で死を迎えるために大切なことは何だろうか。一番はまず家があること、当たり前だ。立派な家である必要はない。きれいで片付いた家である必要もない。散らかって薄汚れた家で十分だ。二番は、患者さん本人が「家がいい、家に帰りたい、家で死にたい」とはっきりと言えることだ。そんな勇気はない、死ぬなんて、と思う人の耳元に内緒声で、「練習、練習。練習と思って言ってみて」と囁いておこう。知らない心の底の方で、誰もが似たような叫び声を放っている。ほんとは、きっと、誰にも見られず、看られず、がいいのだろうけど。 三番目は「分かった、私が助けてあげる、あなたが家で最後の日まで過ごすことを」と言って下さる人が在る、ということだ。そう言って下さる人が家族の中にあると大いに助かる。そんな家族はいない、という人の場合は、「在宅ホスピス」は無理か。そうではない。一人暮らしの人でも、最後まで家で過ごすのを支えよう、ということを可能にしたい。そのために民生委員、町内会長、公民館区長、住民一人一人の協力がいる。その人たちの理解と工夫と経験がいる。家での死を可能にする工夫は山ほどあり、そのことを話し合おう。