Joy!しろうさぎ通信『Flash Back』
昭和56年5月、神戸大学病院小児科入局から医師人生が始まりました。医師としてどのように進むべきなのか、どのような医師になりたいのか全く決めておらず、流れに逆らわず仕事に就きました。ここからの3年半は、三木市民病院・姫路赤十字病院で小児科の基礎をしっかりと勉強し、医師としての正道を進むことができました。ただ、大きな病院にもかかわらず私以外に女性医師は1人いるかいないか、学生の時からこんな感じだったので慣れていました。
医師として一人前になる頃、突然、無期限の休業に入ることになりました。
昭和60年11月頃、埼玉の古びた官舎で4ヶ月になる長男の育児をしている時、このまま医者を辞めていいのかと天の声が聞こえてきました。医者の仕事に何の未練もなく休業したのですが、物足らない生活にうんざりしていた頃でした。縁も所縁もない土地で勤務先を探すのは大変です。医事新報やジャミックで求人情報を求め、八王子にある託児所付きの個人病院に就職できました。ここからの7年間は、泥臭い医者でした。この病院は、いろんな経歴を持ち一癖も二癖もあるような医者の集まりでした。心やさしい院長は、私を枠にはめることなく、小児科以外の診療を勧めました。この間に次男三男ができましたが、手本となる女性医師はなく、私より重労働な看護師さんのがんばりを見習って育児と仕事を両立させました。実家より遠方に住んでいましたので、産休開けから病院の託児所を利用し、1歳児からは立川市立見影橋保育園に通わせ、病気の時は病院の託児所にお願いし、ある感染症の時、午前中は主人が休み午後は私が休みと綱渡りのような事もしました。身の回りでは、職業は違うけれど私と同じように仕事と子育てを両立させている人たちは多く、周囲のことを気にせず自由に暮らせた期間でした。
平成4年12月、主人と共に鳥取で開業することになりました。鳥取でのキャリアがなく、つながりもほとんどない土地での開業は、戸惑う事が多かったです。そして、息子たちも大きくなっていきます。キレル子どもが注目され始めた頃でした。1日の大半を過ごす保育園では保母さんが子どもに寄り添ってくれましたが、小学生からは私の目が必要になってきました。時には我が子の方が大事と自分自身を納得させ、ジレンマを感じつつ診療時間を割いていました。息子たちが家から出て行く時まで、我慢の期間でした。
平成20年4月、夫婦だけの生活に戻りました。今の話題のひとつは、いつまで仕事を続けるのかです。
振り返ると、37年間医者を続けています。輝かしい経歴や資格もなく、医者の仕事にしがみついてきました。自分の努力だけで続けられた訳ではありません。医者を再開させた時の天の声は、父への感謝の気持ちでした。そして、息子たちの子育てには主人の理解が必要でした。
小児科医として自慢できることは何もありませんが、唯一、次男の窒息からの救命です。主人の帰りを待ち家族旅行に出かける日の事です。独歩のできた10ヶ月の次男が、青ざめた顔でウーウーと唸って私のほうに歩いてくるのに気付きました。何かの窒息と分かりましたが、教科書通りに、頭を下にして背中を強く叩いても、ハイムリッヒ法を試みても、何も出てきません。救急車を呼ぼうと思いましたが、救急車が来る前に死んでしまうのは確実。どんどん青ざめる次男を見て、慌てる気持ちを抑え冷静になり、この子を助けられるのは私しかいないと思い、息子の口の中に指を思いっきり突っ込み、取り出したのは巨峰の一粒でした。それから、何事もなかったかの様に家族旅行に出かけました。今思い出してもぞっとする出来事でありながら、仕事の支えになる出来事でした。