Joy!しろうさぎ通信『竹竿を立てた青空の底に加わることができたのか』

博愛病院 西井静香

 当時の文部省に設置された21世紀医学・医療懇談会が、“成熟した医師養成と履修学問分野の医
学教育への統合を志向し、学士編入を推奨” したことで、それまで国公立大では大阪大学だけでし
たが、1998年度の群馬大を皮切りに、医学部学士編入を実施する大学が急激に増加しました(な
お、近年では低迷し縮小傾向のようです)。鳥取大学も2002年度より3年次(当時;現在は2年
次)への編入が開始され、わたしは2003年に編入しています。つまり2期生です。
 高校からストレートで入学している同級生とは8歳離れており、「なんかめんどくさいのが入っ
てきた」、と思われていたに違いない、と今となっては思えますが、それでも良い人達ばかりで、
なんだかんだ仲良くしてもらいました。また、一般的には4年制大学あるいは大学院修士を卒業し
てすぐの編入生が多いようですが、この時は私含む6人中5人が社会人経験者でした。さらに、社
会人を経験した再入学生(編入ではなく、ちゃんとセンター試験を受けて1年次からの入学)も多
い学年で、学年の1割強がそういった年齢層が高めの集団でした。そういったこともあって、いろ
いろと助けてもらいながら留年することなく卒業することができました。初期臨床研修終了後は呼
吸器膠原病内科へ入局させてもらい、今もなお多くの先輩後輩に温かく鍛えていただいています。
 一方、40歳になる直前に結婚し、その後出産も経験しました。当直は免除していただき、週末の
日直だけとさせてもらっていますが、高齢で出産、産休はそこそこに首が座ったかどうかくらいの
月齢で病院の保育園に預けてのフルタイムでの復帰に、欲張りすぎ等々の声が聞こえることもあっ
たような気がします。幸い子どもたちはあまり病気をすることもなく、園の先生方にとてもかわい
がってもらって大らかに育ち感謝しています。今年は上の子がようやく小学生になりました。朝は
小学校へ送り出し、幼稚園に送り届けてから出勤、日中はお迎えの時間をにらみながら、16時ころ
からそわそわしています。夕方に救急車が来たときは、とりあえずの各種オーダーをだしてから、
一旦幼稚園と学童へお迎えに行き帰宅、夕食を食べさせている間に、帰宅した夫にバトンタッチし
てから、病院に戻ることもあります。寝かしつけている間に一緒に寝落ちしてしまうこともあり、
丑三つ時に飛び起きて、学校や幼稚園への提出物の準備や作り置き・つくろいものなど……最近は
習い事の送迎も加わりましたので、まあまあ日々綱渡りかもしれません。どうしても対応が難し
い朝6時~7時台の急変対応は、大先輩の重白先生が対応してくださることもあります。また、夫
の都合がつかず、学童や幼稚園の利用もできない日直の時には、貴重な休日にも関わらずその奥様
のご厚意で某医療センターの某先生のお宅でお世話になることもあります(その先生のお手製昼食
付き!)。どちらの先生にも親子共々足を向けて寝られません。また、昨今のコロナ禍で急に学校
や園を休まないといけなくなり仕事に影響がでることもありますが、たくさんの先生や看護師さん
に助けてもらっており、多くの方々の協力に恵まれていると感謝しています。
 鳥取に来ておよそ20年経ちました。なぜ編入?と最近は聞かれることもなくなり、今ではなんで
だったかな、とその理由はうまく説明できませんが、何か湧き上がるものがあり受験をしたように
思います。そして学生のときから、おそらく今も8年を埋めたい、という気持ちがあります。年齢
層高めの同級生たちは学生のころからの計画通り開業したり、大学に残って着実にキャリアを積ん
だりしています。それに比べて私には具体的にこうなりたいというビジョンはないかもしれません
。それでも、細々とでも臨床医でいたいという気持ちは変わらずあるように思います。しかし、所
謂アラフィフといわれる年代でして、突き動かされるように何かに取り組むような情熱を感じるこ
とも少なくなり、年々小さな字が見えにくくなるのを自覚するにつけ、8年遅れたからといって仕
事のできる期間が8年長くなるわけではないことが身に染みてきています。幸か不幸か、医師とい
う職業は今のところ所謂サラリーマンとは少し違って、働き方をある程度選ぶことができるので、
両立したいこと、諦めること、ちょっと置いておくこととの間を右往左往しながら折り合いをつけ
、少しでも長く仕事させてもらえたらいいなと思います……と、そろそろ故郷の新潟にいる親の介
護問題も浮上してきそうなので、戦々恐々としているこの頃です。