Joy!しろうさぎ通信『治療の歴史に思うこと』

鳥取赤十字病院  山口 由美

 四半世紀ほど前に、米国ヒューストンで研究生活を送っていた。当時、研究室のボスから与えられた最初の
研究テーマはダイオキシンレセプターの細胞内シグナル伝達を解明するというものであった。ダイオキシンも
大事な問題かもしれないが、もっと癌の解明とか、治療につながる研究がしたいなあと生意気なことを考えて
いた。ダイオキシンの研究が一段落したところで、次に与えてもらったテーマがerbB2遺伝子をknock outす
る研究であった。ご存知の方も多いかと思うが、erbB2遺伝子は今でいうHER2タンパクを発現するがん遺伝
子で、当時よりヒトの癌との関係が報告されていた。教室のボスはこの遺伝子のデコイ(遺伝子のアンチセン
ス鎖)を用いてknock outしてはどうかと、研究方法を考えていたのだが、残念ながら帰国しなくてはいけな
い時期となり、研究を完成しないまま戻ってきてしまった。
 その後は、研究の機会も減ってしまい、現在の赤十字病院に赴任してからは、主に消化器癌や乳癌の臨床に
携わってきた。20年くらい前には、乳癌の臨床病理学的性質はホルモンレセプターや腫瘍径、リンパ節転移個
数などを調べて化学療法の適応を決定していたが、当時はリンパ節転移の個数が最大の予後因子といわれてい
た。しかし、化学療法を行ってもすぐに再発してしまう症例や数ミリの微小浸潤癌が1年後には骨転移、肝転
移を起こして亡くなられる症例も経験し、後に検索するとHER2タンパクを発現している乳癌であった。とこ
ろが2001年彗星の如く現れたのが、Trastuzumab(ハーセプチン)という薬剤であった。erbB2遺伝子が産
生するHER2タンパクに対する抗体である。最初に治療したのが、鎧状がんというような形態を示した乳癌の
皮膚転移の患者さんで、左腕もリンパ浮腫のために、バンバンに腫れていたことを記憶している。ところが、
Trastuzumabを1回点滴しただけで、翌日にはリンパ浮腫が改善し、腕の腫れがひいてしまった。「すごい薬
だ。」とその当時感じた。それとともに、「そうか、抗体だったのか。そうだよね、遺伝子のアンチセンス鎖
ではヒトへのdeliveryの方法が難しいし、産生物質の抗体が一番シンプルだよね。」と納得させられた。ほん
の数年前まで、研究していたけど、あのまま続けていても、治療に結びつくことはなかったと実感した。しか
も、私が研究していたころは、第Ⅰ相試験が始まるような時期であり、アイデアとしては、完敗だった(誰か
と戦っていたわけではないが……)。素晴らしい効果をみせたTrastuzumabではあったが、発売当時は進行再
発の患者さんのみの使用に限られていた。当時のHER2タンパク陽性の患者さんは、院内のデータでは術後13
か月で再発していた(中央値)。本当の意味で、Trastuzumabの恩恵を感じたのは2007年になって、術後補
助療法(再発予防)に使用できるようになってからである。Trastuzumabの術後1年の使用で、それまで、
短期間で再発していた患者さんが、本当に再発をしなくなった。
 その後の、抗HER2薬もいくつか発売されて、HER2タンパク陽性乳癌はもはや予後の悪い乳癌ではなくなっ
てきている。Trastuzumabと併用するPertuzumabの発売も治療戦略を変えるほどの出来事であった。転移を
した乳癌の転移巣の切除は行わないというのが、ガイドライン上の原則ではあるが、病変があると患者さんは
ずっと治療を続けなくてはいけないという状況におかれる。そこで、oligometastasesと呼ばれるような少数
転移の患者さんの転移巣の切除を行ってみたが、本当に癌治療から解放される患者さんも出てきている。
 最近、新たな抗HER2薬が発売された。Trastuzumab Deruxtecanといわれる薬剤で、Trastuzumab(抗体)
に抗癌剤のDeruxtecanを結合させた抗体薬物複合体といわれる物質である。この薬剤はHER2タンパクを発現
するがん細胞に結合して細胞内にとりこまれるのだが、Deruxtecanは細胞膜を通過して隣接する癌細胞にも
入っていくらしい。癌組織は均一なものではなく、すべての細胞がHER2タンパクを発現しているわけではな
いが、HER2タンパクの発現のない隣接細胞にもとりこまれることを考えると、乳癌だけではなく不均一性の
高い、HER2陽性胃癌にも効果をもたらすのではないかしらと勝手に期待をしている。但し、現時点ではまだ
使用経験がないところである。
 癌治療を行っていて、ほとんど予後の改善がない疾患もたくさんある中で、HER2陽性乳癌は近年、最も予
後の改善が得られた疾患ではないかと思っている。抗HER2薬を開発して世に送り出した研究者の方々は、本
当に研究者冥利に尽きるだろうなあとうらやましくもあり、その効果にはささやかな感動をいただいている。
臨床の現場で、治療を行いながら、まだまだ流れを見守っていきたい。