Joy!しろうさぎ通信『大先輩の思い出と若手医師支援』

米子市 米子中海クリニック 渡邉ありさ

 私は東京都の練馬区で生まれました。そのころ父方の祖父母が練馬で内科の開業医をしていました。
生きていたら今年で100歳になる祖母が医師になった頃は、女性が入学できる医学専門学校は数校しかなか
ったと聞いています。女性医師が少ない時代の苦労もあったと思いますが、いつもニコニコ穏やかで、背筋
の伸びた白衣姿のかっこいいおばあちゃんでした。診察室と繋がった自宅に同居していた時期もあり、私が
風邪をひくと、三角屋根の家みたいな五角形に折った薬包紙に包まれたピンクの甘い粉薬を処方してくれま
した。私が医師を志したのは祖母の影響もあったと思います。

 高校に入学する頃に埼玉に移り、2001年に自治医科大学を卒業しました。大学で出会った鳥取県出身の夫
と研修医時代に結婚し、9年間の義務年限を互いの県を行き来して果たす結婚協定を結びました。卒業後は
6年目まで埼玉県で勤務し、残りの3年間を鳥取県で過ごしてそのまま現在まで鳥取での勤務を続けていま
す。義務年限の終了後、2011−2015年に鳥取大学の地域医療学講座でお世話になり、医学生の地域医療実習
や地域枠の活動などに携わらせていただきました。教員として一緒に過ごした医学生さんたちが、現在は医
師として立派に活躍している姿を見たり、病診連携でお世話になったりしていることをとても嬉しく、頼も
しく思っています。
 自治医大附属さいたま医療センターで消化器内視鏡をご指導いただきました。鳥取県では大学の医局に所
属したことがなく顔が広い方ではないのですが、多くの先生方に患者さんのご紹介やがん検診読影などでい
つもお世話になっています。
 現在、高校2年から小学6年までの3人の子育てをしながら、人間ドックや外来診療、内視鏡の勤務を続
けています。共働きで転勤が多かったので、引越のたびに保育園や病児保育を探し、様々なサービスを利用
して周囲に助けていただきながら、離職することなくキャリアを続けることができて現在に至ります。
 10年ほど前から母校の自治医科大学卒業生の女性医師支援担当を拝命し、中国ブロックを受け持っていま
す。仕事と育児を両立する上での困りごとを聞き、都道府県や母校からの情報や支援を受けられるようご紹
介する橋渡しなどの仕事です。当初は女性医師支援目的に始まった取り組みが、現在は活動の幅を広げて育
児の有無にかかわらず男性医師も卒業前の医学生も支援対象となっています。年1回の東京でのブロック担
当者会議や母校での講演会が楽しみだったのですが、現在はコロナ禍で出張がなくなりオンライン参加しな
がら続けています。医師の祖父母を見て育った私が、今は後輩の若手医師たちの支援に関われていることを
嬉しく思っています。
 幸いうちの子どもたちはあまり病気をする方ではなかったものの、それでも急な発熱で仕事を切りあげて
早退や欠勤するなど、ご迷惑をおかけしたことが何度もありました。
 長女が1歳の頃に溶連菌に感染し、ワイドシリン細粒を処方しました。処方する側からは名前の字面しか
知らなかった薬を、初めて手にして娘に飲ませるときになって、そのピンク色と甘い匂いと懐かしい味に「
むかし祖母にもらった、あのお薬だ!」と思い出が蘇った瞬間はちょっと感動しました(思わず味見しまし
た)。

 私の一番の趣味は旅行です。年に一度の夏休みの海外旅行を楽しみに、仕事を一年間頑張る原動力にして
いました。ミュージカル鑑賞、野球観戦、F1観戦、編物なども大好きです。コロナ禍になってからは旅行も
ミュージカルもお預けで、F1と野球をテレビで観戦するのを楽しみにしています。早くまた旅行に行けるよ
うになりたいですね。
 2年前に長男がスポーツ少年団の野球部に入部しました。今年は6年生でレギュラーになり、私の土日は
多くを子供の野球に捧げています。息子の上達もチームメイトの活躍も楽しくて、これまでママ友づくりが
苦手だった私にも仲良しの保護者がたくさんできました。今年はスコアの書き方を覚えて、試合の日にはチ
ームのスコアラーとしてベンチに入らせていただいています。西武ライオンズの黄金期に西武球場のすぐ近
くに住んでいた中学生の頃から野球を観るのは好きだったものの、今になってこんなに野球どっぷりの生活
になるとは自分でも驚いています。

 とりとめもない自己紹介になってしまいましたが、鳥取県にはこれからも長くお世話になると思いますの
で、どうぞよろしくお願いいたします。