Joy!しろうさぎ通信『在宅医療・介護について』

鳥取県立厚生病院 内科  村 脇 あゆみ
私の祖母は「認知症になった気がする。」と言っていました。私は「そんなことないよ。」と言っていま
した。でも、毎年年末にかかさず作ってくれていた、かき餅の味付ができなくなり、毎日の料理が作れな
くなり、排泄のことも難しくなっていきました。祖父は近くに住む私に頼ることなく、一人で祖母のそう
いった様子を看ていました。農家でしたので山や畑がありその管理をしながら、料理や洗濯をし、祖母の
介護をしていました。迷惑や心配はかけたらいけないと思う祖父でした。祖父は20歳前半で両親を結核で
亡くしていますが、両親を家で一人で看護しました。山や畑を売って、外国からストレプトマイシンを購
入し祖父が注射をしていたと聞きました。両親を介護し最期まで自宅で看取ったのだから、自分が妻の介
護もできると思っていたと思います。でも祖父も90歳を超えて、自分のことをするのが精いっぱいであっ
たと思います。
 介護申請をして訪問看護などを勧めても、「他人様が来られると気を遣うからいい。」と言って申請し
ませんでした。夕方になって祖母がおらず、近所の方と一緒に暗い中を探し回った夜もあったと聞きまし
た。祖父一人で一生懸命祖母を看ていましたが、ある日、畑に行っている間に、薬と食べ物を認識できず
祖母が傍らにあった大量の薬を飲んでしまって緊急入院となりました。その時の祖父の落ち込みはひどか
ったです。それから、そのまま祖母は施設に入所となりました。祖父は一人生活になりました。
 介護は本当に大変であったと思うのに、「さみしい。」と言っていたと聞きました。祖母の施設に会い
に行ったあとには、「施設でよくしてもらっている。」と安心していました。「(施設は)温度もいいし、
料理をしなくても食事は出るし、身体も綺麗にしてもらっている。でも、おれは、ずっと家に居たい。最
期まで家がいい。」と言っていました。私が祖父を訪ねていくと、暖房もつけずにオーバーを着て炬燵に
入っていて、心配する私に笑顔で私の方を気遣う言葉をかけてくれていました。私の両親も一人でいる祖
父が心配であったと思います。遠くから頻回に様子を見に来るようになりました。寒くても、食事を自分
で作らないといけなくても、車の免許も返上したので容易に買い物にも行けない環境であっても、自分の
家にずっと居たいと言っていました。
 ある日、祖父は自宅の布団で亡くなっていました。
 祖母には祖父が亡くなったことを伝えていません。
 厚生病院は中部の中核病院ですが、内科では老老介護に限界がきた方の緊急入院も多いです。入院して
から介護申請をし、申請が通ってから施設を探し始めるといった患者さんもおられます。子供は都会にい
て一人で生活している高齢の方が倒れていて、近所の方が救急要請をされるといったこともあります。
 祖父母のことがなかったら、私は、「認知症があることわかっていて介護申請をなぜしなかったのだろ
う。」とか、「老老介護や高齢者の一人暮らしなど続くわけがないのに、なぜ早く施設を探すなどの行動
をしなかったのだろう。」という発想しかなかったと思います。でも、祖父母のことを何年間かにわたっ
て傍でみていて、認知症であることを受け止めることの難しさや、限界まで家で看つづけようとする家族
の気持ちが少し分かるようになりました。そして、緊急で入院をしないといけないような状況になって初
めて、自宅で老老介護をすることが限界だと感じ一緒に住むことに区切りをつける方や、住み慣れた家に
戻ることを諦めたりする方もいるのだと、思うようになりました。それくらい、自宅で暮らすことを諦め
る決断するのは難しいのだと知りました。
 一方で、病院は短期入院を勧める方針にあります。入院してから介護申請をして施設を探すのには月単
位で時間が必要です。
 また、国としては自宅での介護を勧めていく方針にあります。ただ、在宅医療・看護はまだ充実してお
らず、現時点ではそういった体制を使って自宅に退院される方は少ないのが現状です。
 ある調査では5割以上の方が自宅に最期まで居たいと答えておられます。でも実際は7割以上が病院で
最期を迎えておられます。
 介護をする人もされる人も、最期まで住み慣れた家で過ごせてよかった、と言えるような在宅医療・看
護が進んでいくことを望んでいます。そんな時代が来るまで、病院で働く私にできることは、家で過ごせ
られなくなってしまった方へ必要な医療をしながら、その家族や本人に今後の過ごし方を考える時間を提
供し、病院スタッフと一緒に退院先についての相談にのり、具体的に環境の場を提案させていただくこと
だと思っています。