Joy!しろうさぎ通信『○○退職考』
はじけたとはいえまだまだ地方にはバブルの名残のあるころ、私は岐阜で医学生をしていました。女子大生ブームもあって学生生活を満喫、卒業前に婚約して、せっかくなので少々働いてから結婚退職、と甘い人生設計のもと岡山大学で研修することにしました。ところが父からは「お前らを医者にするのに一人どれだけの税金がかかってるか考えてみろ、働いて返せ」と言われ、義父母からは「しっかりサポートするから仕事頑張って」と励ましてもらい、入局した岡山大学小児科教授からは「医局の半分近くは女医さんだが結婚出産で辞めた人は過去に誰一人いない、中四国全体に関連病院はあるから結婚相手と一緒に赴任させてあげよう、でももしも別居したい時にはいつでも離してあげるから申し出るように」とのお言葉をいただきました。今から思うとこれほどいろいろな可能性を含めてご配慮いただいたはなむけの言葉は見つかりません。結婚退職の野望は口にできないまま、心の中で次なる目標をたてました。そう、出産退職です。その日までは全力で!と思い、ノイ部屋(主に研修医が使う簡易ベッドがいくつか設置してある部屋)で何度も朝を迎え、夏休み以外は毎日元気に通勤し、最短で認定医を取り、準備は万全、その割にはなかなか訪れないコウノトリの存在を忘れかけたころようやく赤ちゃんを授かりました。当時赴任していた広島の病院では、「医者の出産は前例がない」「後任が決まらない」などと言われ続けたため、このまま当直室から分娩室に行くコースか?その時はひとつよろしく頼むよ、と胎児に愚痴をこぼしつつ働いていましたが、妊娠35週に入ってようやく処遇が決まり、晴れて出産退職をしました。手のかからない子だったことをいいことに、着付けのお稽古、平日のママランチやお出かけなど、小児科医には怒られそうな休暇を楽しんでいたころ、教授から電話がかかってきました。
「そろそろ働かんか~、もういいかげん退屈で働きたくなってきたやろ?」
この時「いいえ私は働きません」と即答しなかったのはなぜだったのでしょう。教授のエビデンスに基づいた絶妙なタイミングのお電話だったから、というのもありますが、それ以上に、わが子とずっといて感じたことは、どうあれ子供は育つが、そのプロセスで周りも育ててくれるのだということでした。わが子であれ誰であれ、すべての子供たちが健やかに、のびやかに育って欲しい、そのために私ができる事をお手伝いしたいと心から願う気持ちを教えてくれた時間なのだと思いました。別に親にならなくても他者を慮ることができればこんなことは小児科医にとってしごく当たり前の事なんでしょう、でも私にとってはその後の子育て期間も含めて必要な体験だったのだと思います。結局、万が一のために行っていた保活が役に立ち、保育園とベビーシッターさん2人にお願いし5か月で常勤復帰しました。
過日しろうさぎの女医さんたちとお話しする機会があり、先生方のしっかりとしたライフプランに感銘することしきりでした。それにひきかえわが甘ったれ人生といったら! 家事も育児も緩やかに夫にシフト、子供達には将来のためにという名目で家事雑用頼みまくりの日々です。
思っていた未来とは違うけど、この道を歩くよう促し、支えてくれている家族、教授はじめ諸先輩方に出会えた僥倖に、育ててもらった患者さんとご家族に感謝。相変わらず、次の○○退職は何がいいかなぁ、といまだ虎視眈々とねらいつつ。