Joy!しろうさぎ通信『三度の試練を乗り越えて』
三朝町 湯川医院 湯川喜美
このたびは「Joy! しろうさぎ大賞」を頂き、ありがとうございます。私がこの素晴らしい賞を頂
くだけの仕事をしてきた自信も自覚もありませんが、長年にわたり地域で仕事を続けてきたことへ
のご褒美と思ってありがたくお受けすることにしました。前もって、受賞後に挨拶をと言われてい
ましたが、私は学術的な研究等していませんし、アカデミックなものも無く、何をお話ししようか
と考え、医者になって63年の中で深く心に残っていることをお話ししようと考え、標記の演題にし
ました(試練は大げさかもしれませんが)。
私は1961年鳥取大学医学部を卒業し、1年間のインターンの後、鳥大第1内科に入局しました。
はじめの試練は入局2年目です。
私の母の実家は倉吉市上福田で、母方の祖父が開業した後、叔父が後を継いでいました。その叔
父が急死したのです。診療地域は広く、今のようなクルマ社会ではなく、市内まで出かけるのは大
変なことでした。叔父の後を誰かが引き継ぐことになり、家族会議の席で、父の一声「喜美! お
前が行け!」それで決まりです。臨床経験もまだ浅く、路頭に迷う気持ちで行きました。そこで私
が思ったことは、患者さんの話をしっかり聴こうということです。この姿勢は今も変わりません。
ある時、患者さんが自分の指を広げて「爪の周りの色がおかしい」と相談されました。私はアヂソ
ン病を疑い鳥大に紹介しました。私の診断が当たりすぐに治療を開始されて、あとあとその患者さ
んには大変感謝されました。その当時、まだ部落差別があり、患者さんはその部落の人でした。
「若いけど見立てが良い」とか「話をよく聴いてごしなる」とか喜んでいただき、たびたび往診に
も声がかかりました。
高城で3年余り仕事をしましたが、このままでは自分に進歩がないと思っている時、県立厚生病
院の内科で医師の募集があり、家族と相談して厚生病院に就職しました。就職した当時は内科の常
勤は4~5人いましたが、数年の間に、四国の郷里で開業するために辞めた先生、倉吉市内で開業
する先生など一人辞め二人辞め、気が付けば内科の常勤が二人になっていました。これが二番目の
試練です。一日が目まぐるしく過ぎていきました。外来診療は大学から支援をしていただきまし
たが、入院患者の受け持ち(主治医)と回診が大変でした。5階と6階が内科病棟で、1フロアー
約40人の入院でしたから、一人が1フロアーを受け持ち、階の移動を最小限にしました。でもこの
状態は思ったほど長くは続かないで、常勤が少しずつ増えてきて体制が整ってきました。
三度目の試練は夫の死亡した後です。
夫は私より早く1965年に鳥大第2外科から厚生病院に赴任していました。そして1993年に、今の
場所に湯川医院を開業しましたが、開業して7年目の1999年に病死しました。この場所は、もとも
と私の実家で、大正2年(1913)に祖父が開業し、そのあと父が1988年まで続けていましたが、
父が病死したため閉院していたのです。夫は経営を法人でなく個人でやっていたので夫の廃業と私
の新規開業の手続きのなんと面倒なこと! 届け先が数か所あり、夫の名前と私の名前、廃業か開
業に○をつけ同じような書類を何枚も書きました。書類を早く提出しなければ、引き継いだ患者
さんの診療ができないので、本当に書類に追われる日々でした。そのおかげでゆっくりと悲しみに
暮れる間もなく時間が過ぎて行ってくれました。それから26年が経ちました。
私の好きな言葉は、“生涯現役“ と “継続は力なり” です。この二つの言葉のおかげで今もこ
うして元気に仕事ができることに感謝しています。私のとりとめのない話を聞いていただきありが
とうございました。