Joy!しろうさぎ通信『医師になって四半世紀を振り返って』

琴浦町 赤碕診療所  青 木 敦 美

鳥取市で生まれ鳥取大学に入学し、平成6年に鳥取大学医学部医学科を卒業しました。卒業後の入局は鳥大第一内科でした。お手本にはなりませんが、2年間の研修期間はあまり陽の光を浴びることのない生活でした。2年間で診た患者さんは入院が中心でしたので数としては少なかったですが、今でも何人もの患者さんの顔、病状が思い出され、かなり濃く患者さんを診ていたように思います。

鳥取から離れたことがない人生でしたが、医師になって4年目に2年間アメリカのNIHにvisiting fellowとして勉強させていただくチャンスをいただきました。現在、地域医療講座の教授であられる谷口先生が帰国されるタイミングで、同じラボで働かせていただくことになりました。アメリカでの一人暮らしを始めた頃は緊張の連続でした。車のディーラーに行って、展示してある車の中から車を選び、支払いを済ませ、簡単な手続きをしてそのまま運転して帰りました。右側通行、車は左ハンドルで何もかも初めてのことでしたが、よく無事にアパートまでたどり着いたと思います。ナビやスマホの無い時代、お買い物に出かけて道に迷って必死に地図を見て何とか帰り着いたこともありました。部屋の鍵を部屋の中においたままゴミ捨てに出て、オートロックで閉め出されて途方にくれたことなど今でも鮮明に覚えています。サマータイム制度では期間がわからなくて焦ったこともありました。それでも毎朝5時に起床し、日本から持って行った炊飯器でご飯を炊いておにぎりを作りそれをお弁当とし、毎日張りきって出勤しました。地下2階の駐車場に車を止め、階段で8階のラボまで登り、6時までにラボに入り6時に実験を開始する日々を送りました。研究生活は臨床と違って自分のペースで仕事を進めることに魅力があり、実験は下手でしたがその分長時間労働でカバーし?苦なく?働き続けました。精神的にも追い込んでしまい帯状疱疹になったりしましたが、研究という世界は頑張るだけでは駄目で、結果を出し論文を書き続けないといけないこと、結果がでないと研究費用も得られず、研究継続が難しくなることを知りました。また研究者としての才能がないことを自覚する2年間でもありました。半分燃え尽きて帰国し、その後研究を継続させることなく結婚して臨床医の道を選びました。お世話になった先生方には大変ご迷惑をおかけしたと思っています。本当に申し訳ありませんでした。

子どもは三人出産しましたが、3回とも帝王切開でした。一人目が低在横定位で陣痛が始まって24時間経過しても子宮口は開かず、緊急帝王切開となりました。夫の皆生トライアスロンの日でしたので、夫はやむなくDNS。そのため二人目三人目も帝王切開となりました。妊娠と妊娠の間に合計4回も流産を経験してしまいました。

一人目の子はよく泣いてくれました。絶対泣き寝入りしない根性のある子でした。お陰で未満児ですでに声がかれてしまい、現在に至っております。夜も離れるとすぐ泣くので毎晩私の体のどこかに触れている状態で寝ていました。本当に子育ては大変だと実感した1年でした。(二人目、三人目になるにつれ、泣いてぐずられることが減って、三人目はどんなに上二人が体を触ったり騒いだりしても知らん顔して寝ているような子で助かりました。)三人とも母乳で育てたのですが、産後数ヶ月で復帰したので1年は授乳時間をとりながら仕事をしました。診療所勤務の時は隣が官舎だったので祖母にみてもらいながら、帰って授乳したり、保育園に預けてからは比較的保育園が近かったので保育園に通ったり、県立中央病院に勤務しているときはその当時の内科部長の秋藤先生、病院院長の武田先生のご配慮ご理解のお陰で病院近くの実家に戻り授乳して育てました。振り返れば産後1年は365日当直をしているような日々だったと思います。こどもが小さい時は現在の診療所か病院では非常勤医師で当直のない勤務でしたので、夜も誰かに子どもをみてもらうことなく何とか若さ?で乗り切った感じです。他の女性医師の方は出産・子育てをしても医師としてのキャリアを積み重ね、学び続ける方もおられ本当に尊敬の念を抱きます。私は向上心がなく駄目駄目でした。

今から10年前、4回目の流産後に臨床的じゅう毛癌と診断され厚生病院から大学病院に紹介されてしまいました。当初はまだ子どもも小さく(下二人は私の闘病生活を全く覚えておりません。)入院は考えられませんでしたが、何とか向き合い入退院を繰り返し化学療法と手術療法を受けました。その当時は、仕事に復帰してしばらくは医師としてではなく患者さんサイドでの見方をしてしまい、客観的に医療することができませんでした。しかし副作用のつらさも今ではすっかり忘れてしまい、治療中自分で撮ったきれいな?頭の写真を人に見せることができるくらい元気になりました。出産育児だけでなく自身の病気で多くの人に助けていただきました。この場を借りて改めて感謝申し上げます。

結局大学では1年目の研修、3年目に1年間働いて以後戻ることなく現在に至っています。専門医としての道に憧れはないとは言えませんが、平成16年から琴浦町赤碕で地域医療を行っていて、ここで患者さん自身の病気、仕事、背景なども考慮して診ていく医療の必要性・重要性を学びました。また子育てにおいては「いってらっしゃい」「おかえりなさい」が言える環境で働けたことを幸せに感じています。今も患者さんから多くのことを学び、紹介させていただいている病院の先生方に助けていただきながら外来診療、訪問診療を行っています。私には、これから医師として活躍される先生方に、胸を張って伝えられる自分の医者としてのスキルがありません。しかし、地域医療の現場で患者さんに身近に感じていただき何でも相談してもらえる医師となり、患者さんの意思を尊重しつつ、健康寿命を延ばす取り組みを行っていきたいと日々試行錯誤しております。学びと反省の日々ですが。

最後になりましたが、未来のある若い先生方が女性医師というだけでdisadvantageにならず、あたりまえに活躍できる環境を求めるだけでなく、自ら切り開いていってもらいたいです。